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​Danceで綴る物語「余白に溶ける声」

​ストーリー

さまざまな、息をのむような演目が繰り広げられる。
豪華な装飾とライトの中で、生きる意味をある一点だけに見出して輝くアーティストたちは、随分と自分とは違う世界にいるようにハツネには感じられた。
――結局、あの人たちは“持っている”のだ。
夢中になれるものに出会えて、それを生きがいにまで昇華できて、みんなに認められて…。
生きる意味がある人たち。生きることを許された人たち。
“許し”を持っている人たち。
私は違う。

哀しいような、でも当然の事実を確認しただけのような、
よくわからない感情のまま、しばらくハツネは座っていた。
すっかり客は引き、そこには彫刻と、その彫刻が持つ赤い花――ギフト――だけが残されていた。

「触りたい。」
性懲りもなく心の底から湧き上がってくる感情に、ハツネはため息をついた。

カタン。

反対側の客席にイクミが立っている。
常にみんなと一緒にいる印象のイクミが、ひとりでいることにハツネは少し驚いた。

イクミは彫刻と花をじっと見つめている。
ハツネの存在には気づいていないようだ。
ゆっくりと歩き、彫刻の花をひとつ手に取る。
最初からそこにあったかのように、赤い花はイクミの手に収まった。

「あの人も、やっぱり“許し”を持っている人なんだ。」
ハツネは落胆したが、視線はイクミを追い続けた。

イクミはさらに歩き始める。
二体目の彫刻に行き、赤い花を手に取る。

「? もう持っているのに?」

イクミは愛でるように花に顔を近づける。
そしてそのまま赤い花を引き抜いた。
流れるように三体目へ。
四体目、五体目、六体目――。

ハツネは感じていた。
何かざわつくような、見てはいけないような、
ここにいてはいけないような、叫んで逃げ出したいような感覚を。

結局イクミは、十二本すべての赤い花を抱えてしまった。
まるで「すべてのギフトは私のため」と、
「私にはその価値がある」と心から信じているかのように、
無邪気に、楽しそうに、しかし妖艶に微笑むイクミを見て、ハツネは動けなかった。

「すべてのギフトが……」

ハツネは無性に悲しくなった。
持つ者と持たざる者――何が違うのだろう。
生まれた時から、私は何も許されていないのかもしれない。

ふと、一番奥の彫刻が目に入った。
他の彫刻より地味で、小さな花を持っている。

青い花だ。

花屋で触れられなかった青い花束を、夢にまで見た青い花束を思い出す。
ハツネはゆっくりと彫刻に向かって歩き出した。
彫刻が自分を見ているような気がした。
――これはあなたのギフトだと。あなたへの“許し”だと。
自分の奥底の願望をそのまま読み上げられたような気がして、足がすくむ。
足はすくむのに、身体の中心は、心は青い花に向かっていく。

「触りたい。」

おぼつかない足でうまく進めないハツネに、彫刻が足を差し出す。
手が震えて伸ばせないハツネに、彫刻が手を差し出す。
涙でにじんで前が見えないハツネに、彫刻が目を差し出す。

――私のところにも来てくれるのだろうか。
ギフトが、許しが、生きる意味が。

ハツネが彫刻と共に青い花に手を伸ばす。
ああ、私も、生きることを許されるのかもしれない。

……何が起こったのかわからなかった。
青い花は、忽然と姿を消していた。

呆然とするハツネの視線の先を、青い花を手にしたイクミが悠然と歩いていく。
彫刻は哀しそうに、えぐられた目から涙を流し、その動きを止めていった。

――ああ、私はまたやってしまったのだ。
私はいつも、すべてをダメにしてしまう。
私に心を寄せてくれた人を、みんな泣かせて哀しませるだけ。
本当に、生きる価値がない。

イクミの満足げな笑顔を振り切るように、
ハツネは踵を返して劇場を後にした。

 

 

イクミは今日も街の人たちに親切だ。
「この前、読みたいって言ってた本、持ってきたよ。」
「美味しそうなクッキーがあったから、良かったらあなたにも。」
「これ、ついでに捨てておくね。」
「いいよ、私が代わりにやっておくから、先に帰って。」

いつも穏やかで明るく、どんな人にも平等に親切だ。
街の人はみな口を揃えてイクミを褒める。

「あんな良い人は他にいない。居てくれるだけで周りが明るくなるし、怒ってるところや落ち込んでるところなんて見たことがない。本当にできた人だね。」

イクミはふと、何かをずっと待っていたような気がする匂いを感じて外を見る。
どんよりとした雲から雨粒が落ち、地面に染み込んでいく。
イクミは、その雨が自分の中にも染み込んでいくような感覚がした。

――待っていた。
私が、私に戻る時間がきた。

クローゼットの奥から、普段は着ない赤い服を取り出す。

クローゼットが語りかけてくる。
「さっさと着たら? 本当は白い服なんて似合わないくせに。」
「いい人ぶってるけど、本当のあなたはそんなんじゃない。」
「ねぇ、どこに行くの? 何しに行くの? ねぇってば。」

クローゼットだけでなく、周りのすべての家具が笑い出す。
ヒステリックに笑う家具たちの中で、イクミは淡々と赤い服を着る。
赤い服とともに、身体の中に熱い何かが流れ込む。

――ああ、やっと私に戻れる。

外に出たイクミは空を見上げ、微笑みながら赤い傘をさす。
深めの傘は、すっぽりとイクミの顔を隠してしまう。

「今、誰も、私を見ていない。」

楽しそうに呟きながら、イクミは歩き出した。

 

街行く人々は、みんな傘をさしている。
誰もが足早に、どこかへ向かっている。

イクミは人の流れに身を隠した。
人がただの汚れに見える。せっかくの綺麗な道に、点々と道を塞ぐ邪魔な物体。
何も考えず、何もせず、何も成し遂げないくせに、口だけはよく動く人形たち。

「綺麗にしないとね。」

イクミは、均一に置かれたゴミをひとつずつ足で潰していく想像をし、
身体の芯が喜びに震えるのを感じた。

潰したい。全部。
全部、残らず、潰してしまいたい。

 

私はただ歩いているだけ。
ただ、すれ違った人が階段から落ちるだけ。
すれ違った人が、道路に飛び出してしまうだけ。
私はただ歩いているだけ。

イクミが突き飛ばした人が、誰かにぶつかり、荷物が飛び散る。
混乱が広がっていく。
イクミは見向きもせずに歩き続けた。

みんな潰れてしまえばいい。何の役にも立たないのだから。
みんな死んでしまえばいい。

 

劇場の彫刻から抜き取ってきた赤い花を手に取る。
誰かのギフト? 誰かの幸せ? 誰かの生きる価値? 生まれてきた意味?
それがなんだというの。誰にも受け取らせない。誰も幸せになんてさせない。

イクミは赤い薔薇を千切り始めた。
一本一本、丁寧に、確実に。
誰も幸せにならないように。誰も、生きる意味なんて持てないように。

 

ハツネは息を飲んで、その光景を見ていた。
今、自分が見たものが信じられなかった。

イクミが人を突き飛ばし、もう少しでその人は車に轢かれそうだった。
階段から落ちて怪我をしている人もいる。
そして今、あの美しい花を全て千切っていた。

全ての人が生まれながらに持っているという「ギフト」。
もしかしたら、それは私のギフトでもあったかもしれない。
イクミはそれを、全て千切ってしまった。

ハツネには、イクミがまるで別の人のように見えた。

花びらを全て千切り、残った茎を放り投げるイクミを見つめながら、
ハツネは急いで近寄って行った。

――聞かなきゃ。

けれど、イクミを目の前にした瞬間、何を聞けばいいのか、どこから言葉を出せばいいのかがわからなかった。
声が、出てこない。

イクミはそんなハツネを一瞬だけ見たが、特に興味を示すこともなく歩き去った。

ハツネは、イクミの世界から弾き飛ばされたような気がして、思わず後ずさった。
逃げ出したい。

振り返ると、そこにナオヤが立っていた。
一瞬、全てを話してしまいたい衝動に駆られたが、もうハツネは限界だった。

――もう、いい。
イクミも、ナオヤも関係ない。私は私の部屋に帰ればいい。

ハツネはその場から走り去った。

 

ハツネを見送ったナオヤは、イクミを注意深く観察していた。
イクミは全く意に介さない。

ナオヤは言葉をかけるきっかけを失い、そのまま立ち去るしかなかった。

 

数日後、また雨が降る。
ハツネは雨が降ってきたのを見て、脈拍が不規則になるような気がした。
――雨だ。イクミは、必ずまたやるはずだ。

「助けなきゃ。」

ふいに出た言葉に、自分で困惑する。
誰を? 何で? 私には関係ない。

そう自分に言い聞かせながらも、ハツネの頭の中はイクミの顔でいっぱいだった。
何も映していないような、誰とも世界が交わっていないような、
世界のすべてに対して怒っているような、
すべてが壊れていくことを楽しんでいるような――そんな顔。

ハツネは無性に泣きたくなった。
なぜこんなに哀しいのかわからない。
ただ、漠然と「イクミが哀しいからだ。これはイクミの哀しさだ」と感じた。

 

「行ってどうするの?何もできないでしょ」

「あなたに人を理解できるの?自分のこともわからないくせに」

「あなたが何をしたって世界は変わらない。イクミも変わらないよ。」

 

「結局どうしたいの?」

「やれるだけやってから泣きなよ。」

「あなたは、まだ、何もしてないだけ。」

 

「たまには自分を信じてみたらいいのに。」

「世界が変わらなくても、あなたは変われるのに。」

「やりたいようにやってみたら。どうせ生きているんだから。」

 

「…行かなきゃ。」

ドアの前で外を想像して一瞬ひるむ。
だが、覚悟を決めてドアを思い切り開け、外へ飛び出した。

 

雨。
街行く人。
赤い傘。

――イクミだ。
何かを見定めるように、周囲を注意深くうかがいながら歩いている。

止めなきゃ。
ハツネは傘もささずに走り出す。

そのとき、イクミはしっかりとハツネを見た。
驚きの表情はすぐに、「こちらの世界に入ってくるな」という拒絶の表情に変わる。

怖い。拒絶される怖さがハツネの足を止めた。
――要らない子。おまえさえ居なければ。迷惑しかかけない奴。もう必要ないから。

頭にこだまするのは、かつての誰かの声か、それとも自分の声か。

その間にもイクミは進んでしまう。

ハツネは走り出した。
追いかける理由も、自分への嫌悪も、世界への絶望も関係ない。
ただ、イクミを止めなければ。
イクミはもっと哀しくなってしまう。

追いかけてくるハツネを見て、イクミも走り出した。
人の波に紛れ、イクミは姿を消す。

 

イクミを見失ったハツネの前に、思わぬ人物が現れた。――ナオヤだ。

「とにかく止めましょう。」

細かい説明が無くても、ナオヤがすべてを知っているとハツネは理解した。

ハツネとナオヤは追う。
イクミは逃げる。

――なぜ追いかけてくるの?

私の世界には誰もいらない。必要ない。入ってくるな。煩わしい。
みんな死ねばいい。全部壊れてしまえばいい。
みんなが欲しいのは“都合のいいイクミ”。私じゃない。
なんて傲慢なやつらだろう。

なぜ、こんなやつらのために世界はあるのか。
なぜこんな世界なのか。
なぜ生まれたのか。
なぜ、生まれただけなのにこんなに苦しいのか。

私はどこまで頑張ればいいのか。
私は何になればいいのか。
どうしたら、生まれたことを許してもらえるのか。
誰が許せるというのか。

みんな死ねばいい。みんな、みんな死ねばいい。私も、死ねばいい。

 

イクミはどこかへ走り出す。

「……きっとあそこだ。」

ハツネはイクミの心が流れ込んでくるように感じた。
イクミの心なのか、ハツネの心なのか、もうぐちゃぐちゃだった。

ただ、助けたい。
助けるなんて、これも傲慢なのかもしれない。
それでも――助けたい。
ただイクミに「あなたを知りたいです」と伝えたい。

 

ハツネがかつて飛び降りようとした屋上。
ここは景色が良い。
最後に、世界は、本当は美しいと思いたいから。
ここの景色は最高だ。

イクミはもう空っぽだ。
空っぽなのに、笑っている。
ふわふわと踊るように空へ近づいていく。
その姿は、誰よりも、何よりも美しく見えた。

ハツネは哀しくなった。
哀しくなったのは、自分が止められないと分かったからだ。

「お願い、死なないで。」

私の言葉は溶けて消えていく。
せめてイクミが哀しくないように、寂しくないように。
ハツネはイクミのそばへ走り寄る。

何も映さないイクミの目が、ほんの少しだけハツネの欠片を捉える。

――死なないで、とは言えないから。ただ、側に居るよ。

世界が、ハツネとイクミを吸い込むように感じた。
ああ、やっと世界が自分たちを受け入れる。

 

その瞬間、下から突風が吹き上げた。
身体が持ち上がる。とても力強く、あたたかい風だ。

 

気が付いたときには、ハツネもイクミも屋上の地面にいた。
その身体をしっかりと、ナオヤが掴んでいる。

――あの風は先生だったのか。

はっきりしない頭でハツネは考えた。

「死ぬ以外にも道はあります。慌てなくてもいい。まだ全部の道を探しきっていません。」

怖い、怖いと思っていたナオヤの言葉に、安堵を覚える。
ああ、私はまだ迷子でもいいのか。

 

屋上で風に吹かれる。
隣にはイクミが座っている。
ただ空を見ている。
二人とも何も話さない。

ハツネはイクミの手を握る。
イクミは空っぽのままだ。
それでも、ハツネはその手を握っていた。

声にならない言葉がある。
「あなたに、生きてほしいです。」

言葉は目の前の空に溶けていく。

寄り添い、祈り、あなたの側に、あなたの横で、

世界の余白に溶けていく。

 

 

――カウンセリングルームにて。

ハツネが診察を受けている。
相変わらず何も語らないが、ナオヤの話に真摯に耳を傾けている。

帰り際、
「先生は裁判官じゃありませんでした。
先生は先生でした。……あたたかい風でした。」
とナオヤに伝えた。

看護師は言う。
「裁判官……ちょっとわかるかも。
でも、先生ぐらい患者さんのためを思っている人はいませんよ。
きちんと言葉を伝える人も、世界には必要です。」

柔らかい笑顔に、ナオヤの心も軽くなる。

 

廊下でハツネはイクミとすれ違う。
イクミが、わずかに会釈したように感じた。
何も声をかけられず、後ろ姿を見送って、ハツネは病院を後にする。

ノックとともに、イクミが小さな女の子と共に入ってくる。

「お待ちしていました。さあ、どうぞ。」

ナオヤはイクミに椅子をすすめ、小さな女の子に笑顔を向ける。
イクミの空っぽな様子を見ながら、そっと向き合う。

 

病院の帰り道、花屋を通る。
自分の手と花束を見比べて通り過ぎる。

十歩……二十歩……。

足を止め、思い切って振り返る。
花屋まで二十歩。

「すみません。赤い花束をください。……それと、青い花束を。」

自分の手で汚さないように、慎重に花束を持つ。

 

病院まで走る。まだ間に合う。

ちょうど帰り際のイクミに駆け寄る。

赤い花束をそっと差し出す。

「ハツネさんは、いつも言葉がないのね。」

ハツネは少しだけ微笑む。

「でも、ハツネさんらしくていいと思う。
私に気付いてくれて、ありがとう。」

イクミの言葉に、少しだけ頷き、今度こそ本当に歩き出す。


相変わらず奇妙な景色も混じるけれど、今日は逃げずに歩いてみる。

「怖い、哀しい、辛い、死にたい、助けて。」
私の声は小さくて、小さくて、誰の耳にも届かない。

それでも私は祈る。
「生きたい。生きてほしい。」

私の祈りは、世界の余白に溶けていく。
溶けていった祈りは、世界に染み込み、広がり、世界そのものになっていく。

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