
Danceで綴る物語「余白に溶ける声」
ストーリー
言葉が出なくなった。
味がしなくなった。
眠れなくなった。
呼吸がわからなくなった。
私の声は溶けていく。
言葉にもならない小さな声が、ただこの世界の余白に溶けていく。
イクミの毎日はいつも素敵だ。
それこそSNSで見かけても可笑しくないぐらい、洗練されていて、美しくて、人としてきちんと丁寧に生きている。
電車に揺られながら景色を楽しみ、学生生活は友人との良い思い出ばかりが蘇る。
職場も同僚や仕事に恵まれており、やりがいのある仕事で、自信も少しずつついてきた。
帰り道、素敵な花に目を留める。
「これ、ください。」
素敵な花束。素敵な毎日。素敵なイクミ。
まるで小説のような、舞台のお芝居のような、そんな生活。
娘の顔を見ながら、イクミは幸せを感じていた。
電車の音が、耳の中で軋みながら膨張して鼓膜を押し破る。
さっきまで普通にスマホを触っていた人が、今は乱暴に振り回している。
居眠りしていた人の身体は、見たこともない方向へ曲がっている。
いつだってそうだ。
学校では楽しそうに笑っているクラスメイトの顔が、奇妙に伸び縮みしていた。
怖さを噛み殺して普通の顔をしていたら、そこにいないものになった。
職場では常に、部屋中に書類と電話と文字がピンポン玉のように飛び交っている。
その飛んでいる書類に触ると皮膚が割け、電話はハンマーで、文字は焼き印のよう。
痛さを堪えて笑顔でいたら、みな奇妙な顔をした。
私はシミだ。
みんなの素晴らしい、美しい人生のシミだ。
素敵な花に目を留める。
「これ……」
出した自分の手が目に入る。汚い。
汚い、汚い、なんて汚いんだろう。私の手は。私は。私の心は。
美しい花と汚い自分。
私が触ったら、美しい花が汚れてしまう。
私が美しい花を汚してしまう。
急いで踵を返して、自分に相応しい場所に向かう。
汚い私が、何の役にも立たない私が、黒いシミでしかない私が、
唯一人の役に立てること。唯一、褒めてもらえるかもしれないこと。
ここは景色が良い。
奇妙に伸び縮みする人もいないし、空中に何も飛んでいない。
空気があって、目の前に広がる景色があって、誰も私を責め立てない。
ここから一歩前に出て飛び降りて、
この世界から私という汚いシミをひとつ消したら、
世界をひとつ綺麗にしたら、
最後に少しは褒めてもらえるかな。生まれてきた意味になるのかな。
一歩。
真っ黒な世界の割れ目に吸い込まれる。
ああ、これで私はやっと世界の一部になれるんだ、と嬉しくなる。
身体が軽くなる。風が吹く。風が身体を押し上げる。
絡め取られる。身体がまた重くなる。
息苦しくて、重くて、離してほしくて、藻掻いてなんとか抜け出そうとする。
また沈む。取れない。
お願い。触らないで。私を離して。もう生きていたくない。お願い、もう死なせてください。
ふと目を開けたら、診察室にいた。
どうやって来たのかわからない。
ああ、私はまたこの世界にいるのか。なんて役立たずなんだろう。
ハツネとのカウンセリングはいつも一方通行だ。
彼女は何も話さない。
彼女の言葉は口から出る前にどこかに溶けてしまうのだ。
そして、届かない私の言葉も彼女の目の前で地面に吸い込まれてしまうのだ。
溶けた言葉は何になるのだろう。どこに行くのだろう。
溶けた言葉だけが集まった世界があるのだろうか。
その溶けた言葉を見ることができれば、私は彼女を理解できるのだろうか。
ナオヤは気づかれないように少し息を吐き出し、思考を中断する。
端的にハツネに最低限気を付けることだけを伝える。
「なるべく来るようにしてください。焦らずにいきましょう。」
「薬を出しますから、必ず飲むようにしてください。」
先生は正しい。先生は間違えない。先生は必要とされる人。
私とは違う。私は正しくない。私は間違える。私は必要とされない。
「また呆れられた。」
遺伝子も、精神も、肉体も間違いだらけの自分を思い知らされながら、病院を後にする。
街は今日も完璧だ。
まるでミュージカルのような世界。
完璧な天気に、完璧な街並みに、完璧な役者。
街行く人はみな笑顔で、会話が弾み、陽気な音楽がかかり、美味しい料理が並ぶ。
その中心にはいつもあのイクミがいる。
イクミが回るとみんなの笑顔が弾け、イクミが跳ねるとみんなも踊り出す。
知り合いも、知り合いじゃなくても、手に手を取って足を鳴らす。
なんて色とりどりで美しい街だろう。
自分の真っ黒の服を見て、ハツネは納得する。
「私は裏方だから。表に出ちゃいけない。舞台に乗っちゃいけない。隠れなきゃ。」
役者の間を縫って走り始める。
誰の目にも止まらないように物陰に隠れる。
自分の影を小さくしようと限界まで縮こまる。
ああ、家だ。私の部屋だ。逃げなきゃ。あそこなら邪魔にならない。
ハツネは暗い部屋の真ん中でベッドに腰掛ける。
身体は重く疲れているが、寝るのが怖い。
またあいつがやってくる。
「どうか怖い夢を見ませんように。」
どうかあいつが来ませんように。
どうか美しい夢が見られますように。
キャンドルを灯し、祈るようにオルゴールをかける。
Lascia ch’io pianga mia cruda sorte,
e che sospiri la libertà.
Il duolo infranga queste ritorte,
de’ miei martiri sol per pietà.
わたしを泣かせてください。
この無情な運命を想いながら、自由へのため息をつかせてください。
この苦しみが、わたしを縛る鎖を断ち切りますように。
わたしの嘆きに、どうか哀れみをお与えください。
キャンドルが宙を舞う。手と足が生え、踊り出す。
「あれ? 私のキャンドルは踊るんだっけ?」
シーツがうねりだし、ベッドが揺れる。
キャンドルが照らし出す暗闇の向こうから、何かがハツネに向かってくる。
檻だ。
ハツネを取り囲むように檻が歩いてくる。
檻は、ハツネを逃さないとばかりに、隙間からぎょろぎょろと目玉を動かして監視する。
ベッドから一歩降りようものなら、一斉に噛みつかれそうだ。
怖い。逃げたい。誰か。誰か。誰か。
助けて。
檻にまとわりつかれ、飲み込まれ、食い荒らされたハツネはベッドに沈んでいく。
……花束、綺麗だったな。
青い花がどこからともなく咲いてくる。
よくよく見ると、咲いているんじゃない。歩いてこちらに向かってくる。
可愛い小さな何かが、可愛い小さな青い花を抱えている。
暗くて、重くて、息苦しいくらい濃い空気が、ほんの少し和らぐ。
いつの間にか、何かがいる。怖くない。
花の間を縦横無尽に飛び回る。走ったり、跳ねたり、回ったり。
大きく、伸びやかに、どこまでも自由に。
彼らには檻なんて関係ない。檻なんて目に入っていないようだ。
可愛い小さな何かが集まってくる。
自由な彼らは飛び立った。自由に飛び立った。
可愛い小さな何かは、いつの間にか大きな、大きな花束になった。
「あ……あの花束……」
青く、美しい花束。私がどうしても求めてしまう、青い花束。
どこからか歌が聴こえる。
ああ、私の祈りだ。祈りが少しだけ届いたのかもしれない。
歌はハツネの身体を持ち上げる。
絡みつく檻から引き剝がすように、優しく、愛情深くハツネを花束まで連れていく。
「……触りたい。」
青く、美しい花束。私がどうしても求めてしまう、青い花束。
今なら許してもらえるだろうか。汚い私でも。意味のない私でも。
ハツネは手を伸ばす。
逃げ出したくなる気持ちを押し殺しながら、手を伸ばす。
歌が聴こえる。祈りの歌が。
ああ、触っていいんだ。私も、触ってもいいんだ。
「調子はどうですか?」
「考え過ぎないようにしてください。」
「薬は飲んでいますか? ……そうですか。次からは飲みましょう。」
「誰かと比べなくていいです。」
「食べられるときはしっかり食べてください。」
「自分を否定しないでください。」
――「あなたは何もできていません。普通のことができていません。価値がありません。」
ふいに声が聴こえた。
花束の向こう側に、あいつが見える。
ベッドの上にあいつが立っている。
目の赤いあいつが、私をじっと見ている。
やめて。やめて。やめて。
「あなたは何ができますか? あなたは誰の役に立ちますか? あなたは何のために生きているのですか?」
………そうだった。私は、そうだった。
いつの間にか花束は枯れて粉々になり、歌は消え、ハツネはベッドの上にいた。
夢か……と思ったら、あいつと目が合った。
あいつの赤い、恐ろしい目。
おまえは要らない、世界に要らないと事実を告げてくる、正しい目。
何も間違ったことは言っていない。間違っているのは私。
痛い、痛い、痛い。
身体中が痛い。
ハツネはベッドから跳ね起き、部屋の隅にうずくまる。
いつの間にかキャンドルは消え、窓の外は明るくなっている。
「仕事……行かなきゃ……もう休めない……。」
「仕事行きなよ」 ……バサッ。
「少しぐらい社会の役に立てば」 ……バサッ。
「毎日何もしないよね」 ……バサッ。
「生きてる価値あるの?」 ……バサッ。
「なんのために生まれてきたの?」 ……バサッ。
家具が口々に嫌味を言いながら、服を投げてくる。
のろのろと服を着る。もう行かなければ。時間がない。
一歩外に出る。家具が何かをかけてくる。戻る。
今度は数歩。家具がどろどろした液体をかけてくる。戻る。
出たり入ったりする。家具がまた液体をかけてくる。冷たい。身体が中から凍る。戻る。
出て歩く。歩いたはずなのに戻っている。
家具が今度は大量に液体をかけてくる。止まらない。
どんどん液体はハツネの周りを飲み込み、暗い海になっていく。
真っ黒でどろどろして、どこまでも広く、遠く、辺り一面は不安の海になる。
ドアが消えていた。
ああ、私はもう家から出られない。家から出ることすらできない臆病者。
もう嫌だ。もう許して。もうほっといて。もう楽にして。
もう生きていたくない。もう死にたい。もう殺して。
もう殺してください。お願いします。お願いします。
私にはもう何もないんです。私はもう何にもなれないんです。
身体の中では暴れているのに、実際の身体は酷く静かだ。
ただただ一点を見つめ、呼吸を止め、死ぬ時を待つ。
ああ、私は結局こうなんだ。これが私の人生なんだ。
開けっぱなしのドアを不審に思い、ナオヤは玄関を覗き見る。
玄関で宙を見つめるハツネがそこにいた。
彼女は何も映さない。何も語らない。彼女自身が世界に溶けていくようだ。
反応のない彼女を長い間見つめていたが、諦めてそっと彼女に手紙をおく。
「あなたに観てほしいと思いました。ぜひ行ってみてください。」
どれぐらい時間が経ったかわからない。
玄関のドアはいつの間にかまた現れ、きちんと閉じている。
いつの間にか近くに手紙が置いてある。
「あなたに観てほしいと思いました。ぜひ行ってみてください。」
手紙と、チケットと。
なんでもよかった。
ただ、やらなきゃいけないことができた。
あと一日、生きなければいけない理由ができた。
ハツネは “GIFT” と記されたチケットを見る。
ざわついている客席を歩きながら、自分の席を探す。
ふと反対側を見ると、あの素敵なイクミが座っていた。
近くの人々は知り合いだろうか。楽しそうに談笑している。
――なんで、場違いだとわかっているのに来てしまったのだろう。
ハツネは自分の席を見つけると、存在を消すかのように小さく座った。
ベルが鳴り、舞台の幕が上がる。


